原罪


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原罪という概念は、ユダヤ教・キリスト教において全く異質なものであり、西方教会においてのみ受容されたものです。また、キリスト教とイスラームにおける罪の概念は、特定のニュアンスにおいて事実上、正反対のものです。たとえば、イスラームには「心の中で罪を犯す」という概念が存在せず、ムスリムにとって悪い思いつきは、それを実行に移すことを拒否するのであれば善行となります。私たちの心を常によぎる悪い思いつきの克服は、罰ではなく報奨に値すると見なされるのです。イスラーム的に言えば、それを実行に移したときのみ、悪い思いつきは罪となるのです。

善行をしようと意図することは、どちらかというと、人間の本来の性質には反することです。私たちは創造されたときから、つまり人類は歴史的に、社会的・宗教的な規制がなければ、肉欲と放蕩の晩餐をむさぼり続けてきました。歴史の回廊を敷き詰めてきた、自堕落さと言う名の暴挙は、個人と地域だけでなく、自滅するまで富を独占し続けてきた主要な支配層をも包括してきました。その中でもソドムとゴモラは大半の分野で名前が挙がるでしょうが、ギリシャ、ローマ、ペルシャ帝国などの古代の列強や、ジンギスカン、アレクサンドロス大王などは、その不名誉において言及されるべきでしょう。また、公共のデカダンス(虚無的・退廃的な傾向や生活態度のこと)の例は数え切れない程だった一方、個々の腐敗に関しては更に一般的なものでした。

善良な思考は、人間の性分とは限らないと書きました。それゆえイスラーム的理解としては、たとえそれが実行に移されなかったとしても、善行を意図すること自体は報奨に価するのです。もしもそうした意図を実行に移したなら、アッラーは報奨を更に上乗せするのです。

原罪という概念は、イスラームにおいては単に存在しませんし、過去に存在したこともありません。キリスト教徒の読者の方にとっての疑問は、原罪という概念が今日存在しているかどうかではなく、原始キリスト教においてそれが存在していたかどうかなのです。つまり、イエスはそれを説いたのでしょうか?

どうやらそうではなかったようです。その概念を生み出した人物が誰であれ、次のイエスの言葉からも分かるよう、考案者は彼ではありませんでした。

 “子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。”(マタイ19:14)

洗礼を受けていない者たちは、地獄行きであるとされるにも関わらず、いかに「天の国」が「このような者たちのもの」となり得るのか不思議に思うかも知れません。子供たちは原罪を持って生まれたのか、あるいは天国が用意されているのでしょうか? 教会は両方の意見を持つことは出来ません。エゼキエル書の18:20では、このような記録があります。

 “子は父の罪を負わず、父もまた子の罪を負うことはない。正しい人の正しさはその人だけのものであり、悪人の悪もその人だけのものである。”

申命記24:16では、同じ点が繰り返されています。これは旧約聖書ではないかという反対意見が上がるかも知れませんが、それはアダムよりも古い訳ではありません。もし、原罪がアダムとイヴにまで遡るのであれば、それがどの時代のどの啓典においても否認されていることを見いだすことは出来ないでしょう。

イスラームでは、各人は精神的に清浄な状態で生まれてくるのだと説かれ、育つ環境や現世の誘惑が人を堕落させるのだとします。いずれにせよ、罪は遺伝・相続されるものではなく、アダムとイヴでさえその罪による懲罰は受けないのです。神は二人を赦されたからです。そして、なぜ人類はすでに存在しないものを受け継ぐことが出来るでしょう? イスラーム的に言えば、私たちすべては自らの行為に応じて審判されるのです。それは以下の節に基づきます。

 “…人間は、その努力したもの以外、何も得ることは出来ない。”

(クルアーン53:39)

…and

 “誰でも導かれる者は、只自分の魂を益するために導かれ、また誰でも迷う者は、只自分を損うために迷う。重荷を負う者は、他人の重荷を負うことは出来ない…”

(クルアーン17:15)

人はそれぞれ、自らの行いに責任を持ちますが、洗礼を受けていないからといって生まれながらにして罪を着せられ、地獄に堕ちる子供はいないのです。

 

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